2019/02/28
正しさについて(投稿者:マイケル竹若)
ブログネーム、マイケル竹若です。
もう月末。
2月は短い…。
ブログアップロードしなくては…。
書き始めるまでが億劫でつい月末になり
深夜までかかってしまう…。
うーんなにかネタはないものか?
ツイッターを開きネタを探して
トレンドを見ていると
“京都造形大”と言うワードが
目に止った。
何かと思いタップすると
美術家の会田誠さんが講演した
京都造形芸術大学が訴えられる
というニュースが報道されました。
いきさつは
京都造形芸術大学が社会人向けに行った
美術に関する講義で内容がセクハラに当たると
大原直美さん(39)が大学を運営する
学校法人「瓜生山学園」を
訴えたというものです。
講義の中で「デッサンに来たモデルをズリネタにした」などの下ネタで笑いをとっていた事や
プロジェクターで映し出される作品
例えば、会田氏の作品は手足を切断された裸体の少女が犬の様に首輪をしている絵や
宇宙空間を長い人糞が漂う絵。
巨大なジューサーミキサーに数百人の裸の女子高生が
バラバラにされると言った
センセーショナルな作品が多くそういった
卑猥で残酷な作品を見て精神的苦痛を受け
急性ストレス障害になりこれは環境型セクハラ
にあたると言う内容だそうです。
実際の講義の内容や映像を見てないし
私は男性なので講義に対する受け止め方は
大原さんとは違うので
どちらが正しい、間違ってると判断できませんが
講義の内容がヌードを通じた芸術論で
講義テーマからヌードを扱うといった前提で事前に
会田氏の作風を画集や展覧会、人柄を著書や自伝映画を
通じて調べていれば心構えができるのでは?
社会人を対象にした講演で自発的に参加してるのに
訴えるのは腑に落ちない。という意見がある一方
フェミニスト側の意見としては
女性の尊厳を踏み躙る作品、女性蔑視。
人を不快にするのは芸術ではないなど
ネット上では様々な意見が飛び交ってます。
ヌードモデルを思いマスターベーションしたという
モラルを欠いた発言は公の場で話すべきでは無い
と思います。(会田氏のツイッターを見ると
芸術と一般社会での性の扱いの違いに問題提起
した発言のようで私の解釈では一般的に
芸術にプラトニック性を求めるのに対し
社会での性風俗が野放しになってる
矛盾と言うか、ダブルスタンダードについて
疑問を投じた発言の中での言葉だと思われます。
講義の動画やレポートを見てないので
臆測の域ですが。)
私が疑問に思うと言うか引っかかりを感じる事は
「正しさ」についてです。
フェミニストVS表現の自由
それぞれの正義がぶつかりい
お互いに尊重する気配がありません。
私は訴えた大原さんを非難するつもりはありません。
事前に会田さんの作品を調べてなかったという
大原さんの落ち度はありますが
講演で男性の性癖を聞かされるのは
女性にとって相当な精神的ストレスだと思います。
それに会田氏の作品は見る人によって
強いトラウマになるショッキングな作品が多いです。
私は子供がいないですが、もし居れば
小学生の時に見せるのは躊躇します。
ただフェミニストの意見を見ていると
会田氏に男性社会の負の部分を投影して
自身が受けてきた理不尽さ、侮辱を晴らそうと
してるように見受けられます。
「女性を侮辱するのは芸術では無い。」
「人を不快にするのは芸術では無い。」
という意見が散見されます。
芸術に好き嫌いを言うことは問題ありませんが
過激な意見だと表現の規制にまで踏み込んだ
ものもあります。
芸術とは何なのか?
以前デザイナーの著書でデザインとアートの違いについて明言されています。
残念ながら誰の何という本か忘れてしまいましたが
デザインの命題は人を幸福にすること
アートはその限りではない。
多くの人を不快にしたからと言って
それが芸術では無いという理屈にはなりません。
私が思うに芸術の動機、目的の一つに
抑圧からの開放が上げられます。
それは常にモラルとのせめぎあいです。
西洋美術では長年人間のヌードを描くのは
タブーでした。
大義名分として神話の神の偶像として
描くには咎められない時代を経て
近代に入り印象派の画家が
人間のヌードを描き次第にタブーでは無くなりました。
その当時でも多くの顰蹙を買いました。
そもそも西洋では芸術は貴族のステータスを
示すものでしたが、民主革命を経て
大衆の文化になりました。
そう言った歴史を経て多様な表現が生まれました。
また今回槍玉に挙げられた芸術家が男性だった
為にフェミニストVS表現の自由という
対立構造になりましたが女性芸術家でも
性に関する表現でモラルに問われる場合がありました。
例えば自身の女性器をスキャンして3Dデータとして
世間に公開して問題になる事も有りました。
また、目立ちやすい物が槍玉に上げられる傾向も
問題だと思います。
数年ほど前、アダルトショップに
男児が男性に侵されると言う内容の
DVDが平然と並んでいました。
同性同士の性交が問題ではなく
男子小学生を侵してる事が明らかに児童虐待。
そういったことが野放しになっているのに
過激な表現の芸術がの方が問題になる。
理不尽な社会です。
世界ではハイブランドの広告をめぐり
人種差別、性差別だと問題になる事が多く
表現する事がシビアな時代になっています。
広告は芸術と違い不特定多数の人が不意に
目にする事が多いので差別的表現について
シビアな目を注がれるのは時代の趨勢
なのかもしれません。
またインターネットが発達した事で
不特定多数の人が作品にしろ、広告にしろ
目にする機会が多くまた、疑問を投げかけやすい
時代も原因があります。
まとめとして、今回の出来事で疑問を感じる点が
2つあります。
1つは、知らないことを袋叩きに攻める
2つは、不快に感じたこと、問題になったことを
深く議論せずに短略的に禁止、規制にかける。
いずれも「正しさ」に発端がある行為です。
ツイッターでは自己と同意見の人がすぐ見つかるので
自分の意見が正しいと錯覚し意見が先鋭化しやすい。
私自身もそう言った、自分が正しいと言って
他者を責めた経験があります。
椅子が前回と同じ部分が凹んでいて指摘した
事が改善されてなかった時に担当者に2度目
の指摘をして、帰りがけに
「塗装しないと、分かる訳無いじゃん」
と聞こえよがしに不満を言われ
ブチ切れて「ハァ?テメェさっきなんて言ったんじゃ」と暴言を吐いてしまいました。
また別の件で定時寸前に急ぎの仕事が入り
下塗りの仕事を依頼した時「やらん」
と言われ頭に血が登りその従業員のケツを
蹴り上げる寸前で堪え、物に当たる事かありました。
どんなに相手に負があったとしても
暴言、暴力に走ると負けです。
また正しさという概念は移ろいゆくものです。
ジェレミー・ベンサムの言葉で
「最大多数の最大幸福」とあるように
幸福が多数派によって決まるように
正しさという概念もマジョリティにとって
都合が良いかで決まります。
例えば個人が行う殺人はマジョリティにとって
都合が悪いので悪になりますが
社会が行う殺人、死刑はマジョリティに
とって都合が良いので正義になります。
ただ先進国では死刑は倫理的、人道的に
問題があるとして廃止する傾向があり
日本はそういった国々から見ると
野蛮な国なのかもしれません。
死刑は正義という正しさも時代の趨勢によって
変わるかもしれません。
ツイッターの機能に話題の言葉を
ランキング別に表示する機能があります。
私はデザインや美術に関する情報と
音楽やアニメに関する情報を集める
アカウントを2つ持ってますが
トレンドのワードは設定やフォローしてる人に
よって変わります。
それを知らない人は日本中の人がその話題をしてると
錯覚してしまいます。
正しさも錯覚しやすい時代です。
常に自分が拠り所にしてる正しさは
変わりゆくものだと自覚し
様々な情報、意見、議論
を通じ調律し続けなければと思います。
以上。